ぺんちゃん日記

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三国志を読み返す 宮城谷昌光・三国志 第11巻の感想

宮城谷昌光三国志、全12巻中の第11巻となります。

これまでの流れ。

諸葛亮司馬懿の宿命の対決は諸葛亮の病死で決着がつく。
蜀は撤退。魏延の反乱で戦力を大きく失う。
孫権と満寵の戦いは曹叡の救援により形勢が大きく動き、孫権は撤退。

危機を乗り切った魏はこの隙に遼東の公孫淵を滅ぼして版図を広げる。
この戦いで指揮をとった司馬懿は大いに名声を高める。
当面の間、魏は安泰と思われたが曹叡が突然病に倒れて死ぬ。
後を継いだのは曹叡の養子の曹芳。
まだ幼かったため後見人に曹爽と司馬懿が選ばれる。
曹爽は初めのうちは年上の司馬懿を尊重していたが、次第に派手好きで遊び好きな者たちを近くに寄せて司馬懿から軍事的権力を取り上げた。

孫権は国が疲弊していることは知りながら曹叡亡き後の魏の力を試そうと北伐を決断。朱然、諸葛恪などが魏に侵攻する。
曹爽の指導力では撃退できず、司馬懿が窮地を救う。
曹爽は強引に蜀を攻めて失敗するなど失策を重ねた。


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第11巻 三国志、事実上の終了。

魏では司馬懿が曹爽との宮廷闘争に勝利。司馬懿が老衰で亡くなると、権勢は長男の司馬師に引き継がれ、いくつかの政紛を重ねて司馬氏の威勢はますます強くなっていく。

呉では皇太子選びで国が分裂するほどの派閥争い。
末子の孫亮が勝利し、諸葛恪に政治を委ねたが、負けん気の強い諸葛恪は戦争に敗北したうえ、周囲と反目。諸葛恪は粛清される。

魏・呉・蜀、いずれも傀儡政権となり、主体性のある政治はできなくなっていく。
曹操劉備孫権そして諸葛亮三国時代の立役者の活躍を目の当たりにした世代がほぼ全滅。
群雄割拠、戦国物語としての三国志は事実上の終了となった。
しかし、俄然面白い。
司馬懿の一世一代の大芝居、ボケたおじいちゃんになるのが最大の山場。
司馬懿おじいちゃん、女の服を贈られたり、おもしろエピソードを持ってるね。

蜀の存在感が全くないので劉備ファンはつまらないだろう。


さて、ここからは三国志のオレオレ解釈です。

曹爽とゆかいな仲間たちが全滅。
浮華の徒はアクが強くていいキャラしてる。
みな、おしゃれで酒好き女好き。邸宅の地下に秘密の部屋作って夜な夜な集まって歌い踊って騒いだというのだから今時で言うならクラブに通い詰める感じ。
こんなだけど、何晏の本業は老子研究の学者。玄学の創始者のひとりとも言われる。曹操の養子で才能を愛され、曹操の娘を妻に迎えている。間違ってもブタ殺しの孫ではない。
参謀役の丁謐は頭が良すぎて口が悪い。政権中枢の自分より才能ありそうなものが司馬懿しかいないので低脳王朝だと見下してる。
鄧颺は乱暴で女好き。金にだらしがない。
桓範は才能はあるが自尊心が高い。ただし、彼は曹爽の田舎のパイセンだったから昇進しただけで愉快な仲間だったわけではない。

曹芳を含めて風紀を乱したのは確かだが、徹底的に族滅されるほどの悪事だっただろうか。
曹芳が英邁だったら司馬懿は逆に不安だったのでは。
司馬懿は歴史の勝者だからかっこよく(都合の悪いことは省かれて)描かれているけど、実際やってることはかなりえぐい。そして嘘つき。
「罪を赦す」と和睦を呼びかけ、投降したら前言撤回して死刑にした。なんと孟達、曹爽、王陵の3人がこの手口の犠牲になった。
蜀の費禕司馬懿のクーデターの是非を議論した。
国民は動揺せず人事が適切で曹叡の遺言通りに国を支えたと言う意見。
国が半分に割れるほど争い、クーデターの際には皇帝を不安定な立場にし、争った相手を族滅させるのはやりすぎという意見の二つ。
的を射た分析である。

司馬懿に近づくことで力を維持したのは郭皇太后
王陵の乱、張皇后の暗殺計画、いずれにも登場しないので何をしてたのかと調べてみるとなかなかの食わせ者。ここから活躍と言うか暗躍するようだ。
太后の存在意義は頼りない皇帝を支えることにある。
王陵が推薦する曹彪は血縁が遠いから味方する意味がない。
張緝と張皇后の計画は、言ってしまえば皇后と皇太后の勢力争い。
司馬氏の側につくのが有利だと考えたのだろう。
太后にとって皇帝はちょっとだらしないくらいが良い。
曹芳が酒浸りになったのは母のためだったりして?

やるべきことをやりきってから死んだ司馬懿
いくつもの暗殺計画を防いで天寿を全うした。
曹操献帝の裏工作で度々命を狙われたが それをきっかけに与党を皇室に送り込んだ。
司馬懿は出世が遅かったかもしれないが。曹操の近くで皇帝のあしらい方を学んでいたのかもしれない。

孫権老害化して晩節を汚してしまった。
若い嫁を猫可愛がり、孫のような年の子を溺愛。後継者選びを破綻させる。
袁紹劉表から学ぶことができなかった。
おまけに厳罰を好むようになり、皇太子の扱いのおかしさを指摘する者たちを次々と排除。教科書どおりの暗君。
まあ曹操ですら曹植に気持ちが傾いていたのだから理屈ではうまくいかないのが後継者選びということか。
結果、末子の孫亮が即位。諸葛瑾の子の諸葛恪が太傅として実権を握る。
奇しくも叔父諸葛亮と同じく幼帝の後見人となった。
野心家の諸葛恪は、魏の司馬懿の死後の魏の実力を測るために北伐を決意する。
思い返せば諸葛亮曹丕の死で曹叡に代替わりしたタイミングで出師表を書いた。
父親が常に諸葛亮と比べられ、弟の方が上と言われた悔しさを自分が晴らしてやろうと意気込む気持ちは理解してあげたい。
合肥にこだわったのも孫権が落とせなかった城を攻略することで尊敬する人を超えたいと言う出世欲だったろうか。
結局その野心は身を滅ぼす。

劉禅は四十歳で やっと政治に口を出すようになった。
諸葛亮に遠慮していたのは分かるが、その後も政治にはそれほど興味はなかった模様。
アホのふりをしていたと考えられなくもないが、輝くエピソードはない。

諸葛亮はなかなか子供ができず兄の諸葛瑾から諸葛喬を養子に迎えた。
その後、実子の諸葛瞻が生まれたので 諸葛喬の立場は宙ぶらりんとなった。
役割を失った諸葛喬は自分の境遇に歯噛みしたかもしれないが、呉にとどまっていたら諸葛恪の連座だったわけで 、諸葛瑾の血統を守ることはできた。
諸葛亮の実子の諸葛瞻は諸葛恪の危うさを案じる手紙を渡しているが諸葛恪には効かなかったようだ。

大まかな流れ。

呉は皇太子の孫登が死去したことで孫和を太子としたが、弟の孫覇も同格の扱いにした。
それは争いの種だと雇譚が諫めると、孫覇に近い全琮、孫弘、全奇 たちに讒言され、孫権の逆鱗に触れる。
厳罰を好むようになった孫権は雇譚、雇承の兄弟と張休を処刑。さらに同様の諫言をした陸遜までが流刑となった。
陸遜、雇譚に変わって歩隲が政治の中枢に就く。

司馬懿は呉との国境を守る将軍に王淩を指名した。
王淩は董卓を殺した王允の甥である。
王淩は呉の皇太子をめぐる内紛を察して孫権の暗殺を企てるが失敗。
怒った孫権朱然に命じて魏の領内を荒らす。

魏の朝廷では曹爽と司馬懿の対立が 進んでいた。
曹爽の取り巻きの 浮華の徒は法律を捻じ曲げて着服、賄賂、盗みを行うようになる。
その知恵を与えているのがかつて十常侍を粛清した何進大将軍の孫の何晏を筆頭として丁謐、鄧颺、桓範などであった。
彼らが風紀を乱していることに眉をひそめた皇太后司馬懿に接近しようとする。
丁謐の助言で皇太后の危険性に気づいた曹爽は皇太后と曹芳を離す。
曹爽は勝手に詔を乱発。独裁体制に入る。
司馬懿は病と称して家から出なくなった。

曹爽の専横は凄まじく天子のような派手な暮らしぶりだった。
曹爽は両親がはっきりしない養子の曹芳を廃して自分が天子となる正当性があると考えるようになっていた。
それを阻止できそうなものは司馬懿だと考えた曹爽は司馬懿の病が本当か確かめるために人をやった。
司馬懿はすぐそれと察するとボケた芝居をして騙した。
司馬懿の衰えぶりを聞いた曹爽は警戒を緩める。

春、曹爽と曹芳は曹叡の墓参りで高平陵に行き、洛陽を離れる。
司馬懿はその隙をついて皇太后に面会。曹爽を追い出すクーデターに誘う。
司馬懿はさらに高柔と王観を味方につける。
仕事ぶりが清潔な二人を参加させることでクーデターの正当性をアピール。

かろうじて洛陽から逃げ出した桓範は曹爽に詰め寄って天子とともに許昌に向かって司馬懿と対決すべきと提案した。
陳泰と許充は皇太后には皇帝を廃して別の皇帝を立てることが可能だから、曹芳を抱き込む価値はないと忠告する。
困惑した曹爽は抵抗せずに曹芳を返せば貴族としての身分を保証されるのではと考える。
桓範は声を荒らげて止めたが曹爽は聞く耳を持たず司馬懿と交渉する。
司馬懿は曹爽にすぐさま引退して謹慎するなら助けると返す。
受け入れた曹爽は邸宅に軟禁される。
曹爽シンパの悪行は側近だった何晏が減刑を期待して容赦なく取り調べる。
曹爽らは反逆の罪で死刑となった。
結局、何晏も同罪として死刑だった。

司馬懿の粛清は苛烈で曹爽の親族末端にまで及んだ。
さらに曹家と血縁関係の深い夏侯玄の軍権を取り上げる。
夏侯覇は蜀に亡命。
夏侯覇夏侯淵の子であり蜀は父の仇敵であるはずだが、夏侯覇の子女が張飛に嫁いで娘を産み、その娘が劉禅に嫁いだ縁を頼ったのだった。

七十歳を迎えてすっかり衰えた孫権は自制が効かなくなっていた。
皇太子の孫和よりも弟の孫覇をひいきして国が割れるほどの派閥争いを起こしていたが、その下の孫亮が生まれると愛情はそちらに移った。
皇太子の孫和を嫌っている全公主は孫亮をやたら褒めたので孫権は孫和と孫覇の二人とも疎ましくなった。
そこで喧嘩両成敗とばかりに皇太子孫和を廃し幽閉、孫覇を毒殺した。
そして末子の孫亮が皇太子となった。

王淩の甥の令狐愚は司馬懿董卓同様の倒すべき国賊と考えた。
王淩は国境で防衛しているので兵力は持っている。
曹操の晩年の子の曹彪が評判良く、出自不明の曹芳に対抗できると考える。
令狐愚が曹彪を口説く。
このころ魏は呉の江陵を攻撃。呉が皇太子のことで混乱していて勝利する。
呉がやり返しに来ると睨んだ王淩は司馬懿に出陣を打診。
この機会に司馬懿をおびき出して殺すつもりだった。
しかし、司馬懿に見破られる。

曹彪が乗り気になった時、暗殺計画を進めてきた令狐愚が病で死ぬ。
計画が座礁した王淩は焦って仲間を集めたが人選が甘く密告されてしまう。
司馬懿は王淩の乱の討伐に向かう。
司馬懿は洛陽に暮らしていた王淩の子の王広を使者として速やかに降伏すれば助けると約束する。
王淩はそれを信じて降伏したが司馬懿は約束を破って一族全てを処刑した。
曹彪も反逆に加担したとして自殺に追い込んだ。
魏の実権は完全に司馬懿のものになった。
ほどなくして司馬懿は老衰で死んだ。

呉では孫権がいよいよ老衰のため病床につくことになった。
皇太子の孫亮家督を継ぐが、幼いので母の潘皇后、孫弘、そして孫権の娘の全公主、孫峻などの密室政治が始まった。
孫権孫亮の太傅を諸葛恪とすると、孫弘は諸葛恪の清廉さを恐れた。
孫権はかつての皇太子両成敗事件を反省して孫和を許そうとしたが、孫峻はこのまま孫亮にするべきと軌道修正する。
孫弘は孫権崩御した隙に諸葛恪の失脚工作を行うが失敗して殺される。
孫亮が即位。諸葛恪が太傅として実権を握る。

諸葛恪は魏の司馬懿と王淩が死んで守りは手薄だったので動く。
堤防の建築を始めて牽制すると、魏の新しい将軍である諸葛誕はこれを攻撃。
諸葛恪は丁奉を差し向けると魏は大敗北して撤退。
司馬師は敗北の任命責任を取って自身と弟の司馬昭を降格した。

一方で勝利した諸葛恪は蜀の姜維に協力を求め北伐を行う。
諸葛恪はたちまち魏に深入りしたが、難攻不落の合肥の城が手薄であることを知ると、これを取り囲み、援軍を待ち伏せる。
呉と蜀から同時攻撃を食らって司馬師は頭を抱えたが、虞松の意見を取り入れて合肥は落ちるものとして後回しにした。
蜀に全兵力を集中させると、蜀の姜維は驚き、急な出陣で物資が不足していることを考慮して退却した。

守備兵わずか3000人の合肥の城は援軍が必ず来るものだと信じて粘り強く戦う。
諸葛恪は今の勢いなら助けに来る魏の本体を叩けると自信を持って待ち受ける。
しかし一向に敵は現れないので士気を失い、合肥の城すら攻めあぐねる。
諸葛恪軍は疫病に悩まされ20万の兵力が半減。悪い報告をすると叱責したので誰も意見を言わなくなった。
諸葛恪は作戦を変えて城壁より高い丘を作る。
遅れていた援軍が蜀を退けて到着したので諸葛恪は撤退した。

虫が治らない諸葛恪は素直に撤退せずに国境沿いに駐屯して街を作ると言い出す。
しかし、孫亮にも不評で都に帰るべしと詔が来る。
敗軍の将なのにやる気を失わない諸葛恪は帰国しても復命せず、謝りもせず、 大船団を組んで徐州を攻めるという。
諸葛恪は反対するものはことごとく処分したので急速に求心力を失う。
孫亮の許しを得た孫峻によって諸葛恪は誅殺。
呉の諸葛家は滅亡した。

魏では司馬師の権力の前に曹芳すら逆らえず、皇帝がないがしろにされることを憂う李豊が司馬師の暗殺を計画していた。
李豊は曹家と血縁関係の深い夏侯家の夏侯玄、張皇后の父張緝を仲間に誘う。
しかし暗殺計画は露呈。関わった者は処刑される。
張皇后の父親まで参加していたので張皇后が廃止され王皇后が立つ。
曹芳はすっかり大人しくなった。

第12巻に続く。
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