ぺんちゃん日記

食と歴史と IT と。 Web の旅人ぺんじろうが好奇心赴くままに彷徨います 。

三国志を読み返す 宮城谷昌光・三国志 第12巻の感想

宮城谷昌光三国志、全12巻中の最終巻となります。

これまでの流れ。

老齢になった孫権は女・子供に甘く、男に厳しくなる。
皇太子を年長の孫和から末子の孫亮に変えて派閥を分裂させる。

魏では曹爽の威勢が天子を上回り、司馬懿は曹爽を恐れて隠居。
いよいよ曹爽の時代がくるというとき、司馬懿が政変を起こして曹爽を失脚させる。
司馬懿は曹爽の一族を滅ぼして司馬師に後を譲って死んだ。

孫権が死去し、孫亮が即位。諸葛恪が後見する。
諸葛恪は魏の合肥を苛烈に攻めたが敗退して国力を大きく損なった。
それでも戦うことをやめないので孫亮の許しを得て孫峻が諸葛恪を暗殺する。


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第12巻 三勇相打ちて三国時代終わる

魏では司馬一門の地位が極まり、皇帝を廃位するほどの力を持った。
司馬懿司馬師司馬昭と既に三代を重ねて権力を確かなものにした。
地方では毌丘倹、文欽そして諸葛誕が反乱を起こしたが鎮圧。
反乱に同調した呉、蜀が侵攻してきたが跳ね返した。
中央では皇帝の曹髦が立ち上がったが司馬昭の腹心賈充が返り討ちにした。
皇帝を弑したにも関わらず司馬氏に反抗できる者はいなかった。
弱体化した蜀に侵入すると、皇帝の劉禅を降伏させた。

呉では年少の皇帝孫亮を操る傀儡政権が続く。
諸葛恪、孫峻、孫綝と三代を重ねて不安定な権力移譲が行われた。
孫亮は主導権を奪還するため孫綝の殺害を試みたが失敗。孫綝に帝位を剥ぎ取られる。
孫綝は孫休を帝位につけたが孫休は孫綝の誅殺に成功。
皇帝が権力を取り戻した。

蜀では姜維が繰り返し魏を攻めるが国を疲弊させるだけで目ぼしい進展はなかった。
魏の鍾会と鄧艾が大軍で侵攻してくると姜維が抵抗。
しかし、鄧艾が裏道を抜けて防衛線を突破すると劉禅が降伏してしまう。
姜維は諦めずに鍾会をそそのかして鍾会と鄧艾が争うように仕向けた。
鍾会と鄧艾は戦死したが、姜維も乱戦の中で死んだ。
蜀の再興の夢は断たれて三国時代は終わった。

読み終えて。

走り切った……。
残りページが少なくなってくるにしたがって物語の締めくくり方に注目が集まった。
この長い物語のはじまり「楊震の四知」(天知る 地知る 我知る 汝知る)に帰ってきた時は胸の中に涼しい風が流れた。
歴史なんて、見るものの主観によってどうとでも解釈できる。
歴史上の偉人が何を考えてどうしたか、など「我の勝手だ」と言われれば歴史の傍観者の見立てなど妄想と大差ない。
「歴史を作っているのは我なんだぞ‼」
そんな偉人たちの声が歴史小説で興奮する私の心の片隅をチクっと刺してきた。
しかし、歴史の当事者だって人に功績を認めて欲しくて前に進むのだし、傍観者がいなければ偉人たちの人生は時間の流れにさらされて沈んでしまう。
歴史とやはり我と汝が作るのなのだ。
そんな締めくくり方に救われた。

長く苦しい2年間の読書体験だったが今は充実している。
勢い余って総まとめの感想文まで書いてしまった。

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さて、ここからは三国志のオレオレ解釈です。

なぜ司馬氏が天下を取れたのか考えるに、司馬氏の特異点が二つ。
第1に一族の結束力の高さ。第2に死ぬタイミングの良さ。
司馬懿は8人兄弟の次男。子沢山で9人の男子を得た。
一族郎党で重要ポジションを独占したら一人くらいは不正を働く人が出るものだ。身内の失敗には甘くなる。順序を超えて兄弟喧嘩にもなるだろう。
しかし、司馬氏は綻びを見せなかった。
特に司馬孚の生き様が素晴らしい。司馬孚は司馬懿の弟。
兄の司馬懿だけでなく、甥の司馬師司馬昭にも尽くした。
兄ならまだしも甥に指図されるのは悔しいはずだ。しかし、司馬孚は皇帝の曹氏にも節度を守った。
司馬孚は次男の司馬昭の良い手本だったに違いない。
司馬懿が口約束を反故にしたり、司馬師が皇帝の首をすり替えたにも関わらず足元を救われなかったのはある程度の筋を通していたからだろう。
そして、死に際。
大仕事をやりきってから逝ったのが強い。
司馬師が文欽と戦っている時に倒れていたら勝敗の行方は違ったかもしれない。
死ぬタイミングは自分では選べないから天が味方したとしか言いようがない。



文欽と諸葛誕の関係がBL 味。
文欽のイメージは筋肉至上主義のゴリマッチョ。
誰彼構わず喧嘩をふっかけては、強い・弱い、上・下で決着をつけなれば気が済まない。最後は屁理屈をつけて俺の方が強いとマウントを取りたがる。
それに対して諸葛誕のイメージは意識高い系。
人間の価値は居住まいの正しさと真っ直ぐな向上心にあると信じている。
何かといえば暴力をちらつかせる文欽を人間として下の下だと見下している。
価値観が正反対の二人が、どういうわけか一つ同じ城の下で背中を預けて共通の敵と戦うって、歴史の皮肉が効きすぎる。好きだよ諸葛誕
諸葛誕は諸葛シリーズの中で知名度が低い。
大して活躍もしてない上に活躍時期が諸葛亮の死んだ後。
でも諸葛誕は部下には愛されたようだ。



孫亮をないがしろにして主家を乗っ取ろうとした孫峻と孫綝は、孫堅の弟の孫静からの分家である。
孫静の子が孫暠で、孫策孫権から見れば、孫暠はいとこにあたる。
その孫暠の孫が孫峻と孫綝である。
孫暠が同世代の孫策孫権に対してライバル心がなかったと言えば嘘になるだろう。
事実、孫策が急死した際に孫暠は孫権から独立しようとした。
虞翻に説得されて思いとどまり、父の孫静とともに隠居することで片が付けられた。
失意の孫暠には二人の子供があり、さらにそれらの子供が孫峻と孫綝となる。
孫峻と孫綝は血縁が近いので連続政権と見ても差し支えはない。
二人が皇帝の位に欲望を隠せなかったのは祖父孫暠の雪辱を果たしたかったと言えるだろう。
本家と分家の主導権争いは本家の孫休が実権を取り返して権力のねじれを修正。
呉の命脈は少し伸びた。



太后は実家の後ろ盾を失っており、頼れるのは先帝の威光と血のつながらない曹芳だけという不安定な立場。女の身ひとつでは床の間の生け花のように儚い。
外戚の悪意に晒されないという意味では男供にとっては利用しやすい
曹芳の教育の失敗を理由に曹芳を引き剥がされ、廃帝を迫られた気持ちはかくや。皇帝選びに介入するのが精一杯。暗躍と見るのは酷だ。
宮廷外からも軽く見られて文欽や鍾会には詔を偽装され、都合よく責任をなすりつけられた。
司馬師は間違いが起きないように、曹髦と皇太后を戦場まで引っ張り出す。
曹髦のプライドは傷つき、凶行の引き金になったに違いない。
二人の皇帝を守れなかったのは皇太后としては痛恨の極みだったに違いない。



姜維は天の加護を受けられなかった。
鍾会に降伏して蜀に取り込んでやろうという作戦は見事。
実際ほとんどうまくいき、鄧艾を追い払った後、鍾会を殺せば蜀の復活だった。
しかし、姜維鍾会、鄧艾、みんな死んで司馬昭の総取りだった。
こんな終わり方まで三国志らしい。

劉禅が全く抵抗せず膝を屈したことは厳しく批判されるが、父親の劉備だったらどうしただろう。
劉備は弟の関羽張飛を見捨てて逃げたし、劉禅は母と共に見捨てられた。
皇帝から曹操暗殺の密書を送られた時も逃げた。
劉禅が身の安全を優先して逃げ出したのは劉備の正しい血ではないだろうか。
劉備の故郷は涿郡涿県。故郷とは正反対の地、蜀で根を下ろした。
蜀の地を渡したらあの世で父に合わせる顔がないと言うのは常識人の理屈だ。
皇帝は逃げられない。だから、劉備諸葛亮に後を譲ったはず。
なのに、常識人たちが 劉禅を推し立てた。
勝手に期待して勝手に失望する。常識人たちの身勝手さこそ非常識。
劉禅が蜀を懐かしまなかったと人は笑うが、心の底は本人しか分からない。



大まかな流れ。

司馬師の暗殺が計画されていたが皇帝の曹芳の決意が定まらず失敗した。
曹芳の悪意に気がついた司馬師は郭太后の同意を得て曹芳を廃位する。
曹芳は酒と女に溺れて風紀を乱した皇帝とされた。
司馬師は次の皇帝に曹操の子の曹據を推薦。
太后は年上の曹據では自分の存在感がなくなると難色を示し、年少の曹髦を推す。
司馬師が妥協し、曹髦が即位する。

司馬師の勝手な廃位に文欽が寿春で反乱を起こす。
曹爽と同郷の文欽は贔屓されたため、曹爽と対立した司馬 氏を憎み恐れていた。
また、夏侯玄と親しくしていた毌丘倹も司馬氏の専横に不満を唱えて反乱に加わった。
二人は郭太后の偽の詔を使って許昌周辺の諸侯を動員。

文欽・毌丘倹が歴戦の猛将であることから傅嘏の提案により司馬師が自ら征伐に向かうことになった。
司馬師は弟の司馬昭と叔父の司馬孚に留守を任せて 病気の体を押して出陣する。

許昌に集結しつつある反乱軍の様子を見た王基は、諸侯たちは文欽の暴力を恐れて従っているだけで本気ではないと見る。
鍾会は文欽と諸葛誕犬猿の仲なので彼に反乱軍の本拠地の寿春を襲わせれば動揺すると提言した。

司馬師は反乱軍の気持ちが一つにならないようにむやみに戦わずゆっくりと進行する。
王基は食料貯蔵庫を守るため、司馬師の命令を無視して敵の城に急接近する。
兵糧を抑え損なった文欽は毌丘倹から鄧艾の部隊が急ぎ足で移動して疲れていると聞き、子の文俶と鄧艾の奇襲に出る。
文欽は寿春から討って出ると、鄧艾は囮だったことが判明。司馬師の本隊に出くわした。
諸葛誕は留守の寿春を落としており、勝機がないと理解した文欽は呉に逃げる。
文欽の敗走を知った毌丘倹は呉に逃げるが途中殺される。

魏の乱を聞いた呉の孫峻が寿春の支援の名目で国境付近まで迫っていた。
しかし、想定より早く諸葛誕が寿春を攻略してしまったので、深追いすると司馬師の本隊と遭遇するおそれがあるので撤退した。
途中、逃げてきた文欽を降して戦果とした。

反乱は鎮圧されたが、司馬師の病気が重篤化。
側近の鍾会、傅嘏、弟の司馬昭を呼んで後の事を話し合った後で亡くなった。
司馬昭は朝廷から洛陽に撤兵させよと命令を受けるが、素直に従わず、自ら兵を率いて洛陽の南に駐屯した。
朝廷(郭太后)は司馬昭を恐れて大将軍の位を授けた。

蜀の姜維は魏が動揺していることを知って動く。
張翼は毎年の北伐で国力が疲弊していると諫めるが、姜維は無視して魏を侵した。
姜維は魏将の王経が凡庸と見て前がかりに攻撃。存分に撃破する。
張翼姜維に十分な成果を得たので帰るべきだと提案したが、姜維は無視。
追撃する。
長安を守る陳泰は鄧艾が応援に来ると聞いて長安守備の心配がなくなり姜維と戦うことを決断する。
姜維に破れた王経は城に立てこもっていたが落城寸前だった。
そこに陳泰は電撃的にあらわれ姜維を破った。
その後の西の防衛は鄧艾に任された。

敗退した姜維はそれでも諦めず 物資を補充しながら越冬した。
春になると再び攻めるが鄧艾はこれを予測しており、鄧艾を甘く見ていた姜維はまた破れた。
姜維諸葛亮を見習って自ら降格した。


呉では孫峻の専横が進み、反孫峻派が命を狙うが全て失敗。
命の不安を感じた孫峻は文欽の策を採用して徐州との国境に城を作り自分の拠点にしようと考えた。領地の強奪には文欽、呂拠、滕胤を行かせた。
ところが孫峻が突然の病で死ぬ。
孫権が後を託したのは遠征にいる呂拠と滕胤だから次の丞相はどちらかだろうと噂されたが、孫綝が政権を掌握した。
納得いかない二人は遠征軍の兵力をいかして不満を唱えた。
孫綝と戦いが始まり、勝敗は孫綝に上がる。
孫綝は孫峻より独善的な男だった。
孫綝の苛烈さを見かねた孫亮は親政を行うと宣言して大赦を行った。


魏の諸葛誕は文欽と毌丘倹の乱で手柄を立てたが、彼は夏侯玄など曹爽の仲間と親しくしていたので司馬昭から罰せられるのではないかと恐れていた。
そこで諸葛誕は寿春の守将の立場を利用して兵力を増強しようとしたが司馬昭に見破られる。
その直後、司空に任命されたので招き寄せて殺すつもりだと一層恐れた。
諸葛誕は寿春で反乱。
呉に人質を出して協力を仰ぐ。
孫亮外戚の全氏一門に文欽をつけて寿春に向かわせる。

司馬昭は速やかな鎮圧より防衛を重視したが、寿春に近い豫洲を守る王基は寿春を包囲。
文欽は寿春と諸葛誕を守るため、包囲網を突破して寿春に入り込む。
司馬昭は皇帝と皇太后を連れて出陣。大兵力で寿春を取り囲んで寿春の補給路を絶つ。
兵糧が乏しくなった文欽は何度も打って出るがいずれも破れた。
孫綝は朱異に包囲陣の外側から攻撃させるが敗退。
孫綝が増援を送るも朱異は兵糧を焼かれて再び敗退。
さらに増援を送ると、今度は朱異の動きが止まった。
それを不審に思った孫綝は朱異を殺す。

寿春の籠城は長期間に及んだ。
諸葛誕と文欽には打開策もなく二人の仲は険悪なため意見が割れた。
しだいに離反するものが増えて全氏一門がまるごと魏に降ってしまった。
もともと文欽を嫌っていた諸葛誕は文欽を殺す。
司馬昭は文欽の子の文俶の降伏を受け入れたので降伏者が相次ぎ、諸葛誕は劣勢となって討ち死にした。
孫綝の戦術眼のなさを見て司馬昭はさらに追撃しようとしたが王基の反対にあって深追いをやめた。

大敗北した呉では総大将の孫綝の身の振り方に注目が集まった。
孫綝は戦いを途中で投げ出して勝手に帰ってきたことをうやむやにした。
孫亮はそれを嫌って誅殺しようとしたが計画が漏れて逆襲された。

孫綝は孫亮廃帝し、孫権の子の孫休を立てる。
孫休は孫綝の傀儡として振舞うと孫綝は気を許したので、孫休は隙を突いて張布を使って殺した。
呉の実権は孫休が握った。

司馬昭は 相国に昇り晋公に封じられる。
魏では若い曹髦が司馬昭と郭太后に不満を爆発させ、皇太后府を襲撃。続いて司馬昭を襲ったが、賈充の兵と衝突して討ち死にした。
曹髦は見境なく乱心する愚かな皇帝として処理された。
司馬昭は次の皇帝に曹操の孫の曹奐を指名。
陳泰は賈充が皇帝を害したことを非難し、賈充の死刑を求めたが司馬昭は腹心の賈充を庇って実行犯の成済たちを処刑してお茶を濁した。
それでも非難する者はおらず国民も騒がなかった。

蜀の姜維の侵入を鄧艾が退ける。姜維は戦争で留守がちで成都では宦官の黄皓が力を持ち始めていた。
蜀の国力低下を見た鍾会司馬昭に蜀の制圧を提案する。鄧艾を使って姜維を誘い出し、背後に回った部隊が退路を断つ。姜維の動きを封じている間に鍾会が漢中に入るという目論見だった。
しかし結果としては姜維は剣閣に立てこもり、鍾会は落とせず足止めをされた。
その隙に鄧艾が横道を発見。江由にたどり着いた。
想定外の諸葛瞻は涪城から綿竹に移り必死に抵抗するが、鄧艾に攻め落とされた。
諸葛瞻の敗北を聞いて劉禅は降伏した。

降伏は受け入れられ、三国時代は終わった。

成都に入った鄧艾は速やかに蜀を制圧。勢いを利用して呉を攻めようとした。
剣閣を守る姜維成都劉禅が降伏したことを知り鍾会に降伏した。
鍾会は鄧艾の独断専横を都に知らせたので司馬昭に謀反の疑いをかけられて身柄を拘束された。
有意性を取り戻した鍾会姜維成都に入った。

独立志向の鍾会と蜀の復活を望む姜維の利害が一致。
鍾会の叛乱を察知した司馬昭長安に移動。皇族の乱にも目を光らせた。
司馬昭は賈充を使者として鍾会に鄧艾の護送を命じた。すると鍾会司馬昭の殺意に感づき、魏から独立しようとする。
しかし、鄧艾派が激しく抵抗して姜維は乱戦の中で死ぬ。さらに鍾会と鄧艾も死んだ。

司馬昭は洛陽に戻る。
呉は混乱に乗じて永安を奪おうとしたが失敗した。
すでに郭太后は死去しており皇帝の曹奐は孤立した。
降伏した劉禅は安楽公に封じられた。

呉は皇帝の 孫休が死去。
孫休は子が幼かったので孫和の子の孫晧が即位した。
司馬昭は子の炎を太子に指名して死去する。
のちに司馬炎は呉の孫晧を降して中華を統一する。