ぺんちゃん日記

食と歴史と IT と。 Web の旅人ぺんじろうが好奇心赴くままに彷徨います 。

三国志を読み返す 宮城谷昌光・三国志 第1巻の感想

やっと第1巻を読み終えました。

感想文を書くために各エピソードを拾い上げていたら、長くなりすぎて、下書き全部捨ててしまいました。
1ヶ月もかけてちまちままとめたのに(泣)。
こんなペースで全12巻の感想文を書いてもしんどいだけで面白くないのでしゃーない。

紹介しているのは Kindle 版の全巻まとめたタイプです。

こんなところから始まるのか。

三国志といえば一般的には三国志演義のことを指すかと思います。
その三国志演義黄巾の乱から始まります。
しかし、この宮城谷昌光三国志黄巾の乱からさらに80年遡ったところから始まります。
第一巻を終わりまで読みましたが、曹操がいまだに産声をあげていない時代で終わりました。
我々にとっての三国志のイメージとは程遠く、漢王朝が衰退していく姿を眺める「後漢物語」でした。
このままのペースで読み続けたら曹操よりも霊帝献帝の方に感情移入してしまいそうなくらい皇帝がおもちゃにされていました。
国盗り物語ならぬ、国盗られ物語かよ。

果たしてこれを三国志と呼んでよいのか?
賛否両論あると思うので、否と思う方は黄巾の乱が始まる第2巻終わりか、第3巻から読み始めてばよろしいかと思います。
歴史ものに区切りはありませんからね。

もちろん、三国志を名乗るからには三国志演義の登場人物と接点がないわけにはいきません。
三国時代を動かした中心人物、曹操の祖父の曹騰が生まれた頃を起点としています。

三国志らしい手応えはありませんが、漢時代の風を感じることができる一冊でした。

どんな時代だったか。

後漢王朝は用意周到な皇位継承が実現できず、皇帝の力が発揮できませんでした。
皇太子が幼いまま皇帝が崩御するので後見人なしでは政治を行えなかったのです。
その成り行きは下の方でまとめるとして、皇帝に身近な人たちに権力に付け入る隙を与えてしまったことで衰退していきます。

皇帝に身近な人とは外戚と呼ばれる妻、母、伯父、他宦官、養母などです。
宮廷闘争といえば宦官が悪者にされがちですが、皇帝のために力を尽くした宦官も存在はしていて、外戚の悪行に悩まされる毎に宦官の権力が相談してきました。
曹操の祖父の曹騰もその流れに乗った一人です。

外戚と宦官の権力闘争、それが後漢王朝です。
外戚何進大将軍が十常侍を打ち倒した事件の構図が分かります。


文化的には儒教が盛んです。
漢王朝はクーデターにより一度途切れた後、光武帝によって建て直されています。
ここで社会の基本を儒教とします。
儒教の親孝行や忠義で下克上を防ごうとしたということですね。
優秀な人材を発掘する'秀才'、徳の高い行いを積み上げた'孝廉'によって全国から英傑が集められましたが、どちらかといえば孝廉に重きが置かれました。
その集大成ともいえるのが楊震
学者としての名も高く、 秀才として推挙されましたが、人生をかけて儒教に打ち込んだ清廉さは国民からの高い支持を得ました。
楊震に勝るとも劣らない数多くの人材が国家の屋台骨となって政治が動いていました。
儒教の徒が権力の暴走のストッパーとなっていたのです。
時には筋を通すために命をかけることもあった官僚たちの社会正義の訴えかけもこの時代の見所だと思います。
国を動かしているのは官僚であり、彼らには彼らの正義があることは知っておくと、地味に見える中央政府の文官の評価も変わってくると思います。

お家騒動の大まかな流れ。

第三代章帝が即位したのはわずか19歳だったため、皇太后が後見人となりました。
幸いにも章帝の皇太后、馬皇太后は慎み深かったため、外戚が出しゃばることなく、上辺だけは親政を行っているように見え、世の中は安定し発展しました。

章帝の皇后は男子を授からず、側室の子が皇太子となりますが、 嫉妬に狂った皇后が皇太子を廃嫡、別の皇子を皇太子に立て、強引に後見人となり、権力を握ってしまいます。
章帝は32歳で崩御、わずか10歳の和帝が即位して、 後見人となった皇后(竇太后) と彼女の兄竇憲が政治を私物化します。

権力を取り戻したい和帝の期待に応えて外戚の竇一族を排除したのが宦官の鄭衆です。
鄭衆は功績を称えられ、宦官が養子をとって財産を相続する前例ができました。

和帝は病気がちな皇太子を廃して赤子同然の子供を皇太子とします。
和帝が27歳で崩御したため、この幼子が第5代殤帝として測位します。
案の定と言うか、あっという間に命を落として跡継ぎがいなくなります。

このピンチを救ったのが和帝の皇后鄧綏です。
鄧綏は竇太后が追い出した章帝の孫を引き取って養育していたのです。
それが第6代安帝。
鄧綏&兄の鄧騭は権力を私物化しませんでしたが、それでも皇帝にとって外戚であることには変わりません。
安帝は成人すると、次第に鄧綏が鬱陶しくなり、鄧綏が亡くなると一族誅殺。

ここで台頭したのが閻皇后と乳母の王聖と取り巻きの宦官の江京そして安帝の遠い親戚の大将軍耿宝などなど宦官と外戚揃い踏みで王朝を食い散らかします。
閻皇后には男子がいなかったので皇太子が邪魔でならず、強引に廃嫡させました。
安帝は継母・養母の実家の影響から外れましたが、親政とは名ばかりです。

そんな折に安帝は体調が急変して崩御します。
太后になった閻皇后と宦官の江京の肝いりで皇帝になったのは第7代少帝です。

皇帝と血縁関係のない乳母の王聖、地盤の緩い大将軍耿宝が失脚します。
太后と宦官の江京が実権を握りました。

即位した少帝は1年も持たず崩御します。
太后と江京は新しい皇帝の候補を探します。
それに逆らってクーデターを起こしたのは宦官の孫程。
江京を切り捨て、閻太后一族を失脚させます。
太后の謀計で降格された元皇太子が復権して8代皇帝・順帝となります。
宦官の地位が高まり、特例だった世襲が制度として認められ、領地を持てるようになりました。

順帝は后として梁皇后を迎え、舅の梁商を大将軍に据えて政権を運営します。
梁商は私心のない人物で順帝の立場は安定していましたが、彼の没後、 息子の梁冀(梁皇后の兄)に代が移ります。

順帝は三十歳で崩御、2歳の皇太子が即位して第9沖帝となり、梁皇后は太后となります………が沖帝は1年程度で崩御、 順帝の血は途絶えます。

3代章帝まで遡り、 傍系の清河王と渤海王の両天秤にかけた結果、梁冀は幼くて操りやすい渤海王を選びました。
第10代質帝です。
この8歳の皇帝はわずか1年半で、梁冀の手によって毒殺されます。

第一巻終わり。

この頃の文化的な出来事。

『紙』を発明した宦官の蔡倫
天体観測の道具『渾天儀』を発明した張衡。
漢字辞典の元祖ともいえる『説文解字』を編纂した許慎。
座右の銘』の出典元となった書道家の崔瑗。
漢王朝の歴史をまとめた『漢書』の班固

楊震

楊震の名前を知らずとも、三国志を読んだことがある方なら、彼の玄孫の楊修の名前はご存知かもしれません。
鶏肋」で曹操から処刑された楊修。
楊震の子孫は4代にわたって三公を任され、王朝を支えます。
三代目の楊彪董卓、李傕と郭汜の横暴にもめげず、時に曹操と対立しながらも王朝を支え続けました。
この家系は三国志の時代以降も続き、隋唐まで続きます。
隋を建国した煬家はこの家の一門と名乗っています。
漢王朝どころか中華の歴史の中でも光を放っている人物ですね。


第2巻に続く。
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