ぺんちゃん日記

食と歴史と IT と。 Web の旅人ぺんじろうが好奇心赴くままに彷徨います 。

眺めの会(定期映画鑑賞会)7月下旬 聲の形

結末に納得いかない作品は駄作か。

SNS を見ていると、時々「結末に納得がいかないから駄作」という意見を目にします。
映画にはハッピーエンドとバッドエンド以外にも宙ぶらりんなもやっとした気持ちを抱えたまま終わっていく作品がありますね。
確かに私もそういう作品にぶつかると急にだだっ子になります。
エヴァンゲリオンシリーズとか意味のわからないストーリーにイライラしたし、トイストーリー4も納得いかない展開にケチつけまくってしまいました。


今回選んだのは『聲の形
聴覚障害を持った転校生をいじめた少年が、ある事件を境にいじめられっ子に転落する話だそうです。
障害者をいじめた連中が何の罰も受けずに終わっていくことが許せないので駄作だと言われています。
世の中の人は、作品の中で犯した罪は因果応報が巡って罪状にあった罰を受けるべきだと 考える わけです。
いじめという都合の悪いものをテーマに扱うくらいなんだから、悪人がのうのうと暮らす結末でも不思議はないと思うのですけどね。

私も世間の人並みに勧善懲悪に則らない結末は駄作だと思うかどうか。
試しにこれから見てみます。

視聴プラットフォームは Amazon プライムビデオ。
プライム会員は視聴できます。
有料コンテンツです。

年齢レーティングはありませんが、いじめや自殺未遂の場面が出るのでトラウマを抱えた人はご注意ください。

聲の形

2016年に公開された日本の長編アニメ映画。
原作は同名の漫画で、 聴覚障害を持つ少女を中心に巻き起こる問題を描いた作品。
監督は山田尚子
脚本は古田玲子。
原作は大今良時
声の出演は 入野自由早見沙織
上映時間は129分で言語は日本語。


あらすじ。

小学6年の石田将也のクラスに 転校してきたのは聴覚障害を持つ少女西宮硝子。
はじめは好奇心を持って迎え入れたクラスメイトと石田だったが、 合唱コンクールで足を引っ張るなど協調作業の面で足並みが乱すことを理由に いじめと発展していく。
いじめは徐々にエスカレートしていき、高額な補聴器を壊したことから学校全体の問題へと発展して行く。
そこで最も積極的にいじめを行っていた石田がクラスメイトの裏切りの証言に遭い一人責任を背負わされていじめられる側に転落する。

コミック版のセット買いです。

見終わった感想ネタバレ含む。

確かにケチをつけたくなるが駄作ではない。

これの感想を書くのはきついなあ。
小中学生の頃に授業でこれを見せられて感想文を書かされてたら軽く死んでいましたわ。
自分の内面に押し込んだ都合の悪い感情が無理やり白日の元に晒されるのですから。
学校の教室という誰もが体験したことがある空間を舞台としているため、自分のパーソナリティに近い登場人物がいてそちらに感情移入してしまうために過去の体験を思い出して激しいストレスを感じました。
障害者をいじめる残酷さよりも記憶のかさぶたをひっぺがされることが見るに堪えない。
駄作と切り捨てて自分の過去から逃げ出したくなる気持ちも分かります。
どれだけケチをつけたところで自分の過去がなくなるわけじゃないんですけどね。
人間のダメなところを丁寧に描けていたと思いますよ。

正当な評価は原作を読んでからするべきかもしれません。
アニメ化にあたって原作が持つ繊細なニュアンスや意味合いが変わっているかもしれませんし。
正直申しますとガキ大将がいじめられっ子に転落する様を見たことがないので、にわかには信じられないし、ましてやそれで深く反省して他人の痛みを推し量れるような人格に変わることも想像できないのですよ。
恋愛要素が相まってデオドラントされた人間に思えたことも記しておきます。
高校生くらいになると悪意を持って他人を動かすテクニックを身につけた人が出てくることを思えば、彼らはなんだかんだでいいやつだったですね。

異物同士のぶつかり合い。

転入してきた異物が障害者だったことで"障害"という分かりやすい問題点に引っ張られてしまいますが、これは障害があるないにかかわらず、人間関係のバランスを崩す異物が入ってきたことに対してどうやって折り合いをつけるかという話ですよね。
小学生なりに受け入れようと努力して、できなくて 、元通りにもできなくて、人生はどんどん次のステージに進んでいき、取り返しのつかないこともありましたが 5年間悩み苦しんだ成長の姿を見見せてくれました。
絶望の高校生活で永束に誘われて 映画を見た後のファーストフード店での下りはみずみずしかったですね。
誰でも経験するありふれた体験ではあるのですが、それがかけがえのない青春の1ページだと気づかせてくれました。
女子とのデートだけが青春じゃないんだね。
私と一緒に映画に行ってくれた友人達に感謝したくなりました。
みんなで遊園地に行った場面も、その体験をしてこなかった私には刺さりませんでしたが、多くの人の心に刺さっただろうと思います。
仲良しグループの中に一人、顔にペケがつく苦手な子がいるところもありがち。
友達の友達だから敬意は払うけど、本音では近づきたくないという関係はままありますよね。
小さいところでチクッと刺してきた。
自分をいじめた相手を許せるか許せないかという話になりがちですが、 こうやっておっかなびっくりながらも少しずつ間合いを詰めて乗り越えていくしかないんでしょうなあ。

共同作業は両刃の剣。

理解できない相手との軋轢は大人の社会にも潜んでいますので自分事として捉えることは可能でしょう。
職場でもノルマをクリアできなくて疎まれるケースは当たり前過ぎる光景です。
集団の中でノルマを与えて共同作業するのは難易度高い。
難しいんだけど成功した時の達成感が大きいので学校生活に適合できる人ほどやりたがる。
学校はみんなで力を合わせてできない人をフォローしろと簡単に指示しますが、フォローされる人の悔しさとかフォローする側の疲労感については大してケアしてくれないんですよね。
話の構造だけ見ると残念ながら西宮お集団から排除してストレスのない距離感においやったことで受け入れられるようになった。
あの少年少女たち、事件を通過して小学生から高校生へと成長したから一緒に遊べる程度の関係を築けるようになったように見えますが、 お互いの理解は小学生の時からほとんど進めておらず、再び同じ集団に混じって仕事などの作業をやることになったら足手まといに感じて排除してしまうのではないでしょうか。
通常学級に割り込んでこないで障害学級に入れば 起きなかったトラブルってことかい。
西宮は聴覚障害という診断が下りて分かりやすいから 目立つけど、石田も 相手の気持ちを想像できずに人間関係を適切に構築できない、いわゆるコミュ障なわけですよ。
授業を妨害している時点で共同作業に支障をきたしている。
でも石田は障害じゃないからノーサポートなんだね。
その他にも可視化されづらい問題として家庭環境の複雑さ。
西宮と石田の父親が全く描かれておらず、特に言及はされてないがシングルマザーという環境でもあります。
教室の中だけで犯人探しをするのは簡単だけど、描いてあることよりも描いてないことの方が問題の根が深いわけで、子供だけに責任を押し付けるのは残酷だよ。

障害者として何かコメントしなきゃダメ?

自分の周りには言語障害者はいても聴覚障害者はいないので特にコメントできる立場ではないのですけどね。
障害をテーマに扱った作品の割には西宮のキャラクター造形が美化されすぎていて、 障害者を描くにあたってこんなにオブラートに包まないと危なっかしくて触れないのかと思うと暗鬱たる気持ちになりました。
作品が描かれた時代が少しばかり前ではあるものの、未だにこんな描きかたなんだと まだまだなんだなと思いました。
西宮は障害者クラスターの中でいるなら人間偏差値70は超えるだろうスーパーエリートですから、これが普通の障害者だと思ってもらっては困ります。
いくら障害者が遠い存在だからといって、スタンダードな障害者が健気に頑張らないことは世間の人は知っています。
障害のあり方は人それぞれ、パーソナリティーは十人十色、当たり前の話ですが 障害者にも十分すぎるほど強い個性がありますからね。
西宮の友達として、彼女とは性格が正反対の別の障害者を登場させれば対比が聞いて良かったかもしれませんね。


結局グチグチ言ってしまった。

なんだかんだでケチをつけてしまいましたが、議論を呼ぶということは人の心のデリケートなところを揺らしておきながら余白が多くて想像で埋めるしか手段がないということなんだと思います。
細部まで論理的に説明されていたら議論の余地もなく各自で納得するよりなかったのではないかと。
伝えるのが苦手な聴覚障害者が主人公で多くを語らなかったところが議論が荒れる要因なのでしょう。
理解しようとする態度。
それこそがコミュニケーションの第一歩なのだと思います。

だからといって私が粘り強く対話するようになるかと言うとそうでもない。
最近、わかんないものはわかんないものとして受け入れることができるようになってきました。
屁理屈をこねて無理矢理解釈しなくても なんとなく受け入れればええやん。
ちなみに私は西宮が何を考えているのか最後までわからず、飛び降りた理由も思春期特有の少女の不安定な気持ちとしか消化できてません。
西宮の妹だって自分が撮った写真が原因だと受け取ったので私が理解できなくてもセーフ?
でも話の結論は過去の悲しみは乗り越えていくしかないという方向に向かいつつあったのに、 自殺で解決しようというのは安直すぎる。
読者たちに何かを伝えたかったとしても、 もうちょっとあっただろうと思わんでもなしです。