ぺんちゃん日記

食と歴史と IT と。 Web の旅人ぺんじろうが好奇心赴くままに彷徨います 。

「好きなものは何?」という質問が孕む恐ろしさ

先日、ラジオを聞き流していて引っかかったことがありました。
そのやり取りは。

「好きなものは何か」それを尋ねたら相手が
「えっ? 好きなもの!?………なんだろう」と答えられなかった。

というものです。

そこで言いたかったことは、好きなものを自覚できない人は大勢いるということと、何が好きかをわかっていても言語化できない人もたくさんいる、なんならそれが出来る人の方が少なくて一種の特殊能力だということです。

そりゃそうだ。
好きなものがひとつもないなんて、なかなかない。
むしろなんとなく好きなものがたくさんある。
そんな漠然とした物の中から最適な一つを選ぶのが難しい。

そこで最適な返しをするなら、お互いの共通点になりそうな「好きなもの」を探すことになります。
それは返答にも時間がかかりますわ。

この質問に対して即答できる人は確かに少ないです。
たったひとつの「圧倒的大好き」がある人だからこそ迷わず答えが出るわけで、しかも相手の気持ちを考えない空気の読めなさが不可欠だからです。
例えばなんですが。
「プールの更衣室の匂いが大好きなんだよね。
その匂いを嗅ぐために、泳がないけどプールに通ってるんだ」
とか熱く語られたら怖くないですか?

そこで「ごめん、よくわかんない」で終わらせずに、相手の情熱を 受け取れるでしょうか?
その覚悟もないのに興味本位に好きなものについて話させるのでしょうか。

好きなものを問いかけるって恐ろしい。

その質問をされる立場だったとして、本気で切りかかっていけるでしょうか。
ずっと好きでい続けるって事、一種の狂気だと思うんですよ。
好きって偏った愛情ってことでしょ?
何十年も磨き上げた、研ぎ澄ました抜き身の刀。
その必殺技を打ち込んで来いと言っているに等しい。
お互いの力量をわかっていない限りできないわ。


「好きなものは何?」
その質問は何度もされたし、自分からもしたし、それで傷つきもし、傷つけもしました。
だからお互いのために「最大公約数の好き」を用意しているのだと思います。
それが流行というもので、「流行っているから好き」とはそういうものだと思います。
鬼滅の刃が流行っているのも、いろんな人の 「好き」が全部載っているからですね。
流行ってのは文化の天気のようなもので、毎日変わるから挨拶代わりの話題に使われるのだと思いました。
だから好きなものが何かという質問は世間話としては意味がない、好きな天気は何と聞かれるようなものだし、毎日同じ天気の人に恐怖を感じるのも分かります。