南蛮貿易について やりなおし高校日本史を読みながら
いつのまに買った!?
Kindle のライブラリにちくま新書から出版されている『やりなおし高校日本史』という本が入っていました。
なぜこれを購入したのか、記憶が全くありません。
もちろん読んだ記憶もありません。
完全に積んどく状態です。
Kindle ストアを見たら、1年前の10月に購入したようです。
多分急に日本史がやりたくなって衝動買いしたんだと思います。
購入してしまったものは仕方ないので、暇な時に読むことにしよう。
テイスティングは安土桃山時代で。
目次を見ますと、 高校の授業の進行と同じ1学期から3学期までの構成になっています。
1学期は古代の日本で、大和政権時代から 平安時代中期まで。
2学期は中世から近世で、平安時代末期から 安土桃山時代まで。
3学期は近世から近代で、江戸時代前半から昭和時代前半まで。
それぞれ4単元にわたって書かれています。
まずは予備知識が比較的豊富な安土桃山時代 2学期の8時間目「南蛮貿易と利休の死」
から読むことにします。
内容は南蛮貿易、太閤検地、 桃山文化、利休の死です。
ざっと見た感じ、歴史の教科書のような網羅的な内容ではありません。
教科書では伝わりにくい物事を時代背景から比較的丁寧に解説しています。
副読本的な立ち位置で、手元に教科書があるか、教科書の内容は一通り理解している前提で読む本となっています。
「やり直し」とタイトルにありますが、高校の日本史が全くついていけなくてドロップアウトした人がやり直すのではなく、一周して大つかみできた人が2週目としてやり直すことだと捉えた方が良いでしょう。
分からない人が読んだら余計に混乱します。
分かっている人にとっては 時代の空気感がつかみやすいと思います。
ゆるい話も入っていて歴史に興味を沸かせる内容となっています。
でもこの本を読んだところでテストの点は上がらないと思います。
南蛮貿易。
2学期の8時間目、南蛮貿易を読みます。
南蛮貿易の本質は、ポルトガル人が日本の銀と中国の生糸の交易を行ったというのが最大の要点。
日本人が南蛮貿易で誤解しがちなポイントは二つ。
鉄砲の国産化についてはさまざまな戦国ドラマで描かれているので近頃では理解は進んでいると思います。
生糸については知らないことが多いかも。
そこでちょっとWeb の情報を参考にしたところ、紀元前200年頃に稲作とともに入ってきて、奈良時代には全国的に生産されていたようですが、 この時代までは圧倒的に輸入していたということです。
そして輸出品の銀。
銀については石見銀山が 世界遺産に登録されたことで もはや常識となりました。
灰吹法というイノベーションによって石見銀山から大量の銀をとれるようになりました。
その産出量は圧倒的で、最高潮の時は世界の銀の1/3を日本から出していたということです。
そこで日本の銀と中国の生糸が取引されたのです。
ポルトガル人がキリスト教の布教を許した大名の港で行ったので、それを南蛮貿易と呼ぶことになりました。
ここで思いっきり疑問。
ポルトガル人が日本と中国の名産品を求めるのは分かるのですが、なぜ日本が中国の生糸をわざわざポルトガル人経由で取引するんでしょう?
日本は中国と直接取引すればいいのに、なんで中間マージンを支払ってまでポルトガル人経由で南蛮貿易せにゃならんのだ?
海禁政策。
実は本の中にも非常にさりげなく書かれているのですが、 当時の中国は海禁政策をとっていて海のルートを開いていません。
明国は度重なる海賊の略奪に悩まされていて、海に出ている船はみんな海賊、お前らアウトくらいの勢いで海上封鎖してたんですね。
海からは事実上の鎖国。
これを海禁政策と言います。
当然ポルトガルは中国と交易できません。
そこで海賊たちと手を組んで密輸で手に入れます。
この頃の海賊は倭寇と呼ばれますが、倭寇には前期倭寇と後期倭寇がありまして、ここで活躍したのは後期倭寇。
彼らは主に中国人です。
中国が国交を認めなかったことで海賊たちは南蛮貿易で荒稼ぎしていたということですね。
でも待ってください。
ここには日本は1ミリも関係してないじゃん。
この本では説明不足でよくわからんぞ?
ここから先は さりげなく書いてある部分すら見つかりませんでした。
しょうがない Wikipedia で確認しよう。
もう少し海禁政策。
ということで、ここからは自分が Wikipedia で拾った点と点を勝手に線でつないだものです。
本には書いてないし、でたらめかもしれないので信じちゃ駄目ですよ。
明は西洋からの船だけでなく、日本の船もお断りでした。
歴史の授業では日明貿易とか朱印船とか習っているので、てっきり中国とは仲良くやっているのだろうと思っていた。
これには中国の複雑な事情があって、中国は諸外国と積極的に交易するような国ではなく、国家レベルで朝貢するだけだったんですね。
朝貢というのは、辺境の蛮族が中華の権威にひれ伏して貢物を持って土下座しにきたので宗主国として手土産を持たせて帰らせるというスタイルです。
国家元首同士が付き合いで行うだけ。
それを瀬戸内の覇者、大内家が取りまとめていたが、大内氏滅亡とともにうやむやになってしまった。
室町時代の中でも日明貿易の発展と衰退の波はありますが、戦国時代においては機能していなかったということになりますね。
日本にとっては中国と交易することで莫大な利益を得ることができますが、中国サイトから見れば喉から手が出るほど欲しいものではなし、リスクを負ってまで海のルートを開くモチベーションはなかったのでしょう。
しかし、石見銀山から大量の銀が出るようになると話は一変します。
中国では銀が不足気味で、日明貿易の時代では日本から手に入れた銀で10倍の利益が出ましたが、石見銀山のシルバーラッシュでは最大で100倍の利益が出たそうです。
こうなると中国沿岸部の漁民たちは真面目に働くより密輸した方が儲かるので海賊 活動に勤しむことになります。
後期倭寇が中国人だったというのが頷けますね。
東南アジアで立場を得たポルトガル。
そんな誰も彼もが海賊の世紀末状態に歯止めをかけたのがポルトガル艦隊。
まあおそらく鉄砲でシメたのでしょうが 、あらかたの海賊を取り締まった功績を明国から讃えられて、ポルトガルはマカオでの居住権を獲得します。
これで大手を振って中国で貿易できるようになった ポルトガルおよび諸外国がマカオを拠点として経済を回した ということです。
この当時、東南アジアは南シナ海を中心に各国が密接に繋がっていました。
タイ、マレーシア、インドネシア、ブルネイ、フィリピン、そして琉球と日本。
ところが、ポルトガルはマラッカを攻撃して占拠した悪評のおかげで長らく東南アジア全域からハブられてました。
当然中国からも煙たがられてます。
日本には種子島から中国の海賊船に乗って倭寇のお友達という扱いで鉄砲を持って食い込んできました。
日本は戦国時代だったので、政府から出入り禁止を食らうことはなく、戦国大名が OK を出せば良いので入り込みやすかったかもしれませんね。
石見銀を求めて日本に来るのでついでに中国の生糸持って来てもらえば手間省けますね。
大型商船の運用は大名個人だけでは大変ですもんね。